親を亡くして悲しむ者は幸いである・孔雀と私
なぜなら、悲しいのはそれだけあなたが親を慕っていたということだ。
喪ったことを嘆くに値する親を持っていたということだ。
これが幸いでなくてなんであろう。
慕い、愛していた存在を喪うのが、いかに辛く悲しいことかはもちろん分かる。
しかし、逆に言えば喪って悲しくなるような尊い存在が、生まれたときからあなたのそばにいたということに他ならない。
そして、あなたはその存在を最後まで愛していたということ。その存在は愛するに値する存在だったということ。
私は子が親を慕い、喪うことを嘆くということがよく分からない。
物心ついたときには、私にとって親は薄氷のような存在だった。
一歩踏み出しただけで、すぐに割れてしまう脆い氷。
そして、氷は割れるたびに私を傷つけるので、ついには氷が早く溶けてこの世から蒸発すればいいのに、とさえ願うようになったのだ。
氷を自覚したのは幼稚園児のときだ。
幼稚園の庭で、自分がひどく脆いものの上にいることに、なぜか気づいてしまった。
その日は鬱蒼とした鈍色の雲が空を覆っていて、目の前には孔雀のはいった檻があった。そして、
「設計ミスで檻が少し狭いのよ。だから、あの孔雀は羽根を全部広げられないの。可哀想ね」
と、幼稚園の先生が話していたことを覚えている。
どういう流れでそうな話になったのかは分からない。
分からないが、一年後に私が卒園したときも孔雀は檻の中にいた。
あの孔雀は、死ぬまでに羽根を思いっきり広げることができたのだろうか。
私はまだ檻の中にいるけれど。